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イタリアあっちこっち陶器の街  ストーリ編
from Natsuki Suzuki
昔からとにかく食器が好き。 若い頃は、モダンな白い器に憧れ、イタリアに住み始めた当初も「ポルチェッラーナ・ビアンカ」に夢中になったりしたが、イタリア国内いろいろ旅するうちに、「マヨルカ陶器」の魅力にすっかり取り付かれてしまった。というのも、イタリアには実に多くの個性あふれる「マヨルカ陶器の街」があるからだ。 ぽっちゃりと厚みがあって手に優しく、手描きならではの味わいがあるマヨルカ陶器。 そんなマヨルカ陶器との出会いを綴った、ショート・ショート・ストーリーをお送りします。
これまでのお話で、マヨルカ陶器の技法がその昔イスラムからスペインへ、そしてイタリアへと伝わり、ルネッサンスを通してどのように発展していったかが少しはわかっていただけたんではないかと思っておりますが(たぶん?)、ここでちょっとナポリへ寄り道して、話しを陶器(ceramica)から磁器(porcellana)へと移したいと思います。

そもそもなぜ、イスラム人は苦心して錫を使った白い釉薬を発明し、白い素地の器を作ったのか? それは当時、中国からもたらされていた白磁や青磁、白地に青い絵文様のほどこされた青花磁器(日本では染付と呼ばれます)がイスラム圏でとても好まれたから。 でも磁器を作るには、白陶土とよばれるカオリンがなければダメ。中国磁器は、カオリンのおかげで、わざわざ工夫しなくても元から真っ白なのだ。18世紀以降、あちこちでも発見されたカオリンだが、当時は中国にしかなかったので、イスラム人は白い錫釉を作り出し、茶色い土器にかけてその代替品とした。(これがマヨルカ陶器の始まり!)
そしてその後、イタリアを中心にヨーロッパ各国で錫釉陶器は大発展するわけだが、ときおり渡って来る本物の中国磁器の魅力は、比較にならなかった(白さが違う!堅さが違う!薄さが違う!)。おりに、大航海時代を迎えて中国や日本から大量の磁器が輸入されるようになると、ヨーロッパ人のあこがれは、一気に“白い宝石”と呼ばれるこの磁器に集中した。17世紀、オランダのデルフトでは、青花や伊万里の模倣品がマヨルカ技法で大量に作られ、シノワズリーはどんどんエキサイトして、各国の王侯貴族は、我れ先にと自国での磁器制作の研究を行った。

先手をきったのは、16世紀のメディチ家だが(さすがメディチ!早い!)tenere(テネレ)といわれる軟質磁器で、まだまだ質において本物とは比べものにならない。
そして月日は経ち1709年、とうとう中国磁器に匹敵する硬質磁器がドイツで完成された。それが、有名なマイセン磁器。ザクセン選帝候フリードリヒ•アウグスト1世は、 マイセンに王立磁器工場を設立、 その技法が外部に漏れないように作業にかかわる者はほとんど監禁状態で、次々とすばらしい作品を生み出させた。

染付け

さてここで、ナポリの登場です! ときは1738年、ナポリ王に即位したカルロス3世の結婚相手、マリア•アマリアがフリードリヒ•アウグスト1世の孫娘だったこともあって、カルロス3世は、ナポリ王国にも王立磁器工場を設立することを決めた。
場所はナポリの北、街を見渡せる小高い丘の上にあるカポディモンテ。すでに建設が始まっていた新しい王宮のすぐ近くだ。独自に研究を重ね、ついにすばらしい光沢を持つ白、きめ細かく、繊細な形でも作りやすい軟質磁器作りに成功。腕のいい職人を呼び、質の高い作品をどんどん作った。王立工場はいったん閉鎖されるが、後、王位を継いだ息子フェルディナンド4世が再開、1806年まで続き、今現在は国立美術館となっている。

ちょっと話しが長くなりましたが、そこで今回旅の途中で寄ったのが、このカポディモンテの美術館。そのなかに、カルロス3世の妃マリア•アマリアが作らせた「salottino di porcellana(磁器の間)」というのがあり、それを一目見たいがため。それでは、その様子はまた次回!


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ウルバニア、グッビオ、デルータ、オルヴィエートを回った後はいったんフィレンツェに戻り、身を軽くして、今度は電車でファエンツァへと向かった。ファエンツアまでは電車で2時間ほど、フィレンツェからじゅうぶん往復できる距離だ。

駅から目指すはファエンツァ国際陶器博物館。気持ちのいい並木道をしばらく行くと、緑に囲まれたりっぱな博物館が見えてくる。ここもまた古い修道院を改装したものらしく、どっしりとした木の古いドアとその周りのモダンな装飾。イタリアの建築はこのように、古いものに新しいものを組み込ませるという使い方が実にうまいといつも感心させられる。
さてファエンツァは、16世紀、マヨルカ陶器のもっとも発展した街としてヨーロッパ中に名をとどめた街。多くのヨーロッパでは、「ファイエンス陶器」といえばマヨリカをさすようになったというくらいだ。 現在でもやはり、陶器の街ナンバーワンといったらこの街だろう。

ファエンツァ2

博物館を回っていると、ファエンツァ陶器は、年代によってその特徴が変化していくのがよく見てとれる。中でももっとも特徴的なのが、他の街でも見たお馴染みのイストリアート、でもこ街のイストリアートは、全国的に白熱して過剰になりすぎた絵柄を一掃して、BIANCO DI FAENZA (ファエンツァの白) と呼ばれるクリーム色の下地が引き立つように、絵柄の色彩を押さえるという STILE COMPENDIARIO (要約された様式、とでも訳そうか) が主流になったことだ。
それからもうひとつ目を引くのが、18世紀に流行したという A GAROFANO という絵柄の陶器。ガローファノとはカーネーションのことで、おさえた色彩のコンビネーションが独特だ。

博物館を後にして、食事をしてから今度は街中探検。カテドラルのあるリベルタ広場やそれに隣接するポポロ広場を中心に、この街は、わりとゆったりと広がっている。いや、ゆったりしているように感じるのは、皆が皆 (紳士や太ったおばさん、果ては神父さんまで!) 自転車に乗って移動しているからかもしいれない。
そして、街中のここかしこにある陶器やさん。販売だけをしている小さなショップから、工房も兼ねている大きなショップまでさまざまだ。そのショップや工房には、必ずFedeltà (忠実) のシンボルの描かれた陶器でできた表札があり、それぞれショップの名前と番号が表記してあるのがおもしろい。後からこれは、先ほどの博物館でもらった街の案内図に示された各ショップの通し番号であることが分かった。イタリアの中ではめずらしくきちんと整備された街である。

ファエンツァ

先ほど博物館で見たファエンツァ陶器の特徴をそのまま忠実に再現して、伝統として受け継いでいる工房、独自のスタイルを貫く工房、ファエンツァはイタリア一の陶器の街だけあって、その質はどこもかなり高いものだった。

ファエンツァ陶器探索を無事終えて、私たちは再び列車に乗りフィレンツェへと戻った。翌日はいちにち休んで、その後はナポリ、アマルフィー周辺、そしてシチリアへと下る予定である。

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昨晩は、同じくワイン好きのカメラマンと、オルヴィエートの有名な白ワイン、オルヴィエート・クラッシコをガーッと飲んで早めにベッドにつき、翌朝は、アポイントに間に合うよう早起きして、 再びオルヴィエートへと向かった。
紹介してもらった陶芸家、ミレッラさんのアトリエは、観光客が行き来するメイン通りからはちょっとはずれた、静かな裏通りにあった。古くて大きな木戸の中は、外からでは想像もできないほど天井が高く、広々としている。陶芸家のアトリエらしく、板をはっただけの棚の上には、 素焼きの器や釉薬を塗り終えたばかりの真っ白い器が、所狭しと並んでいた。

ミレッラさんは、まずは釉薬を塗る手順を見せてくれた。釉薬は、大きな樽の中にたっぷり入っていて、まずはそれをよくかき回す。そして、小さな素焼きのつぼを大きなピンセットで挟んで、ズボッ!と真っ白い釉薬の中につけて、すぐに取り出す。一瞬の早わざという感じだ。それが終わると、絵付けの実演。「今、仕上げているのは、オルヴィエートの伝統的絵柄なのよ」と、ミレッラさん。

オルヴィエート2

それは、20世紀初め、発掘調査によってたんまりと出て来た中世及びルネサンス時代の絵陶器の数々を、工芸復興のために再現して作るようになったというもので、白地に黒でくっきりとしたライン、そして象徴化された人物や動物、植物がグリーンで彩られている。これらは、オルヴィエート様式と呼ばれるそうで、主に現在のラッツィオ、トスカーナ、ウンブリア州周辺で生産されていたとのこと。オルヴィエートはもともと、エトルリア人によって発展した街だから、それよりもっと以前は、ブッケロも作られていたらしい。

すっかりお世話になったミレッラさんの工房を後にし、改めて街中の陶器屋さんを覗き回ってみると、なるほど、緑と黒を基調とした伝統的絵柄をそのまま再現したもの、あるいは現代風にアレンジしたもの、そんな陶器を扱う店がたくさん目についた。シンプルな絵柄とおちついた色合いは、和食にも充分合いそうだ。

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600枚のタルゲとお別れして、私たちは次の目的地オルヴィエートへと向かった。オルヴィエートは、ウンブリア州ナンバーワンの観光地! もうすでに何回も来ているが、歴史ある大聖堂を誇る中世の街並には、陶器屋さんが並び、何度訪れても気持ちいいところ。街への登り口に車を置いて、ケーブルカーと巡回バスを乗り継ぎ、中心地へと向かう。

さてここには、実はもうお目当ての陶器屋さんがある。お気に入りのレモン柄シリーズのある小さなショップ。レモン柄は、マヨルカ陶器にはごくありふれた柄だが、この作家のものは、色彩や筆のタッチが実に私好みで、モチーフとしてのレモンの使い方もバツグンにうまい。(って、あくまでも私の好みですが…)そこで、ぜひこの作家さんの居所を訪ね、絵付けの技術を取材させていただきたいと、まずはそのショップへと駆け込んだ。時刻は、すでにお店の閉店時間ギリギリ。

ブォナ・セーラ!とあいさつもそこそこに、「 実は私、この陶芸家の大ファンなんです」とレモン柄を指差し、店員さんにめいっぱいお世辞をふりまいて、さりげなく作家のアトリエの場所を聞いてみる。ところが、この作家はグッビオの人だった! なあんだ、ザンネン! まさかこれから、再びグッビオに引き返すワケにもいかないし、どうしようか…。すると、事情を察した親切な店員さんが「絵付けを見たいのなら、 オルヴィエートの 知り合いの作家を紹介するわよ」と、申し出てくれた。さっそく電話を入れ、なんと翌日にアポがとれた。私はお礼もかねて、ここでは、しっかりレモン柄の陶器を購入した。

オルヴィエート

とりあえずホッとして街を降り、車を出して、今夜の宿「アグリトゥリズモ・カサノヴァ」へ向かうべく、街からちょっと離れた緑の丘をくねくねと登って行く。途中ひなげしが、まるで真っ赤なじゅうたんのように一面に咲ていたり、小さな湖がポッカリ水を張っていたり、アグリトゥリズモは、そんな見晴しのいい丘の上にあった。(続く)


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グッビオにもう一泊して、翌日オルヴィエートへと向かう道すがら、私たちはデルータによった。デルータは小さな街で、ことさら観光地というわけでもないが、マヨルカ焼きの産地としてはこと有名だ。それを証拠に街に近付くと、CERAMICAと書かれた看板を掲げたショップが次々に現れる。ひときわ目をひいたのは、伝統模様であるらしき孔雀の羽を図形化したもので、皿、カップ、壷、デキャンター等、あらゆる陶器に描かれている。

適当にショップを物色してからデルータの旧市外に入り、お目当ての州立陶器博物館に向かう。 もともと13世紀に作られた修道院を改装したというだけあって、きれいに手入れされた中庭があったり、なかなか気持ちのいい博物館だ。 見学の道順に添って、マヨルカ焼きの歴史の流れが、とても分かりやすく表示されていてところも多いに気に入った。
ここで見たかったのは、前回のグッビオの項でもふれたルストロ(ラスター彩)。同じくデルータでも作られていたというので、いったいどんなふうに光っているのか、是非本物を見てみたい……おお、あった、あった。こりゃあホントに玉虫色だ。右から眺めたり左から眺めたり、すると、角度によって金色に光ったり、青みを帯びたり…。祭典用に作られていたという華麗なポンパと呼ばれるバカでかいルストロの皿もあった。でもまあ、私の趣味ではないわなー。

デルータ

さて、ここで他に興味をひいたのがタルゲと呼ばれる細長いプレート。
いわゆる絵タイルで信仰的な絵柄が描かれている。 提示してある説明を読むと、主にマドンナ・デイ・バーニ聖地教会のものだという。暇そうにしている係員(失礼!)に話しを聞いてみると、その教会はトーディ方面に2キロほど車を走らせたところにあるので、是非行ってみなさいとのこと。 私たちはそのおすすめに忠実に、軽く昼食をとってから教会まで足をのばした。外見はなんてことはない、これが聖地?って感じのところだが、中に入ると、うわッ!
小さな教会の白い壁一面にタルゲがびっしり並んでいる。そしてこれらには、こんな言い伝えがあるそうな…。

1657年、クリストフォロ・ディ・フィリッポという名の小間物商人がこのあたりを歩いていると、ふと足元に聖母と幼子イエスの絵が描かれたマヨルカ陶器の破片が落ちていたので、彼はそれを恭しく拾い上げると、樫の木の枝にひっかけた。 ある日、妻が重病を煩ったので、その破片の聖母のもとに出向き妻の快復を祈った。するとたちまち病気が直ったので、彼は感謝の気持ちを込めて、その樫の木に奉納のタルゲを飾った。 これが信仰の始まりとなり、それからというもの多くの信者が聖母への祈願としてタルゲを奉納するようになって、今現在、600枚以上が飾られているという。 私たちは「あ、この絵カワイイ」とか「これ、なんか笑える」とかいい合いながら、タルゲ鑑賞を楽しんだ。


デルータ・州立陶器博物館 (Museo Regionale della Ceramica Deruta) のサイト
www.museoceramicaderuta.it/

マドンナ・デイ・バーニ聖地教会 (Santuario di Madonna dei Bagni) のおすすめ写真州サイト
http://deb75.altervista.org/madbagni/

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グッビオの郊外で泊まったアグリトゥリズモ、OASI VERDE(オアシ・ヴェルデ) は大正解だった。アグリトゥリズモが充実しているウンブリアならではの満足度! トリュフ三昧の夕食をたらふく楽しみ、翌朝は、緑のなかの新鮮な空気をゆっくり吸いながら朝食をとって、グッビオの街中へと向かった。

グッビオの風景

グッビオは、マヨルカ時代ルストロと呼ばれるラスター彩陶器でマストロ・ジョルジョという名工を産んだ街。ラスター彩とは、イスラム文化で生み出された技法で、玉虫色のような金属的光沢をもっているのが特徴だ。これもやはり、イスラム占領下のスペインを通じてヨーロッパに伝わったもので、マストロ・ジョルジョのもとへ多くの陶芸家が、その技法を習おうとグッビオへやってきた。

さて、小高い山の斜面にひっそりとくっついているような街、グッビオ。その軽い斜面を登って行くと、あるわ、あるわ、風情に満ちた中世の街のそこかしこに陶器の店がある。葡萄や鳥、レモンといったモチーフを使った明るいものから、紺やベージュを基調としたシックな柄ものまで、ショップによって、個性はいろいろ。
そんなショップのひとつ、いかにも伝統的絵柄を守ってます! といった風情のショップの店先で、所狭しと並べてあった陶器の写真を撮っていると、中からいじわるそうな女主人がでてきて「写真撮影お断り。最近は絵柄を真似されて本当に困るわ」といってきた。……ふん! 今の世の中、真似もへったくれもあるもんですか。そんなに大事なら、金庫の中にしまっとけば!? と思わず心の中でつぶやいて、早々退去した。

気を持ち直して、再び石畳みの路地をテクテク登っていくと、一風変わったショップが目に入った。真っ黒な陶器ばかりがずら〜っと並んでいる。中に入ると、「さっきのオバサンとは、えらい違い!」とばかり、とても親切な青年が、この真っ黒陶器の由来の説明をしてくれた。
これらはブッケロといって、俗に“エトルリア人の陶器”といわれており、鉄分の多い土で形成した土器を木片で研磨し、還元炎焼成すると、このように地肌が真っ黒になるという。 還元炎焼成とは、窯の中の炎を制限して(つまり通風孔を部分的に塞いで酸素を減らす)まあ、簡単にいえば、煙でいぶし焼きにするんですね。
絵柄のあるもの、ないもの、モダンな形のものなどいろいろあって、黒の色調も微妙に違う。形の違うものを2、3コまとめて、サイドテーブルにでも置いたら、けっこうステキなオブジェになりそうだった。が、ここでもやはり賢明な友人カメラマンにおしとどめられて、購入は断念した…。

グッビオの陶器

グッビオ他、ウンブリア州の街情報はこちらのサイトでどうぞ。(英語有り)
www.bellaumbria.net/Gubbio/

アグリトゥリズモ「OASI VERDE(オアシ・ヴェルデ)」(英語有り)
www.oasiverdemengara.it/

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 とある年の夏、絵陶器好きが高じてカメラマンの友人とふたり、とうとう「陶芸の里を巡る旅」にでた。当時住んでいたフィレンツェから、まず最初に向かったのがマルケ州の小さな街、ウルバニア。ここは、ルネサンス時代カステルデュランテと呼ばれていて、 イタリア・マヨルカ陶器の特徴のひとつ“イストリアート”で名を広めた街。イストリアートとは、史実やアレゴリーを、まるでキャンバスに描くように画面いっぱいに絵付けしたものだ。カステルデュランテでは、かのラファエロを生んだ街、ウルビーノが近かったこともあって、彼の絵画性を真似たひときわ質の高いイストリアートが生まれた。

ウルバニアの風景

 さてウルバニアに着き、パーキングの表示に誘導され車を止めてみると、目の前にドゥカーレ宮殿。その入り口には、さっそく「CORSO DELLA CERAMICA(陶芸教室)」の看板が。ここでは、夏期ヴァカンス・コースの陶芸教室が市によって運営されていた。

どれどれと覗いてみると、ちょうどそこで絵付けを勉強しているという日本人女性に出会った。彼女は、とても気さくに教室内を案内してくれ、その場でマヨリカ陶器のできるまでをさっと教えてくれた。「失敗した作品は、窓から外に投げるのよ」と、窓の外を指差す。その言葉にびっくりして窓の外を覗くと、その遥か下には大きな川が流れていた。なーるほど、粘土から作る陶器、失敗作は自然に帰るってわけだ。

彼女はその後、市内にあるいくつかの陶芸工房を案内してくれた。
そんな中で、とても深いペルシアン・ブルーの“ラファエッレスカ”に出会った。ラファエッレスカとは、ラファエロがバチカンの回廊装飾に用いたグロテスク模様を、皿のふちなどにあしらったもの。その神秘的なブルーに魅せられ、思わず「ほしいっ!」と手にとりかけたが、これらはもう完全なアート、装飾品だ。ともなれば我が家には、これを飾れるような上品なサロンもないし、なにしろ値段も高い。「これから先、いちいち買ってたらたいへんよ」というカメラマンのするどい一言もあって、断念した。

その後は、市内観光。小さいながら趣のある旧市街。鉢植えの花が彩りを添えている小さなコッチ橋や、18体のミイラがズラリと並んでいてけっこうコワイ「CHIESA DEI MORTI(死人の教会)」。そして、リスカット橋から臨むドゥカーレ宮殿は、入り口側からは想像もつかないほど優雅な佇まいを見せていた。
「ほら、あの窓から陶器の破片を投げ捨てるの」と、この日一日快くガイドをしてくれた彼女がいう。

そのドゥカーレ宮殿をバックに記念写真を撮り彼女と別れ、私たちは再び車に乗って、その日の宿泊地であるグッビオへと向かった。

ウルバニアのおすすめサイト
www.urbania-casteldurante.it/

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 フィレンツェに住んでいた頃、よく見かけたのがニワトリ柄の陶器。素朴さが気に入って、いつも衝動買い。絵柄の違うカップが数種集まった。コレクションするつもりは別になかったけれど、もっと、いろいろなニワトリ柄がほしいなーなんて思っていたある日、フィレンツェ近郊のモンテルーポという街で「Festa internazionale della ceramica(国際陶器祭)」が開かれるというウワサを聞いた。すかざず「ニワトリ探し!」と意気込んで行ってみた。この街は、遡ることルネサンス時代、イタリアのマヨルカ陶器発展に多いに貢献したという華々しい歴史をもつ。

フィレンツェの食器
ところでこのマヨルカ陶器、なんで“マヨルカ”っていうんでしょうかねえ。
初めて聞いたとき、 無知な私はまったく単純に「ああ、あのスペインのマジョルカ島で作られていた陶器なのか」と思ってしまったくらい。が、実際は、13世紀から15世紀にかけてスペインで作られていた絵陶器が、いったんマジョルカ島に集められ、そこからヨーロッパ各地に出荷されたため、こう呼ばれるようになった。で、この絵陶器がイタリアで空前の大ヒットとなった…という話し。

では、いったいどこがそんなにウケたのかというと、それはなんといっても白い素地!これを発明したのが中世のイスラム人陶工。 彼らは、中国の真っ白い磁器に憧れて、苦心の末、元来の鉛釉に錫酸化物を混ぜることによって不透明の白い釉(うわぐすり)を作ることに成功し、そこへ絵付けをほどこした。
それが、イスラム人のイベリア半島進出によって、スペインへ伝わったわけ。中世のヨーロッパといえばすっかり文化は衰退して、まるでお祖末な焼き物しか作っていなかったので、真っ白ツルツル!っとした素地は、さぞかしイタリア人の絵心を刺激したことだろう。さっそくあっちこっちの陶工たちが真似し始め、ルネサンス文化の開花と共に独自の絵柄を展開させる…これが、15、16世紀のイタリアにおけるマヨルカ陶器発展の始まり!

で、話しはモンテルーポに戻るが、アルノ川に近く、フィレンツェへの交易に便利だったことも手伝って、早くも14世紀末からめきめきと腕をあげ始め、りっぱなイタリア・マヨルカ陶器の里となった。そして1498年、モンテルーポ出身のふたりの兄弟が、メディチ家の支援のもとカファッジョーロに窯業所を設立。 裕福なクライアントからの注文が殺到した。
なもんで、さぞかしりっぱなフェスタだろうと思いきや、なんともパッとしないフェスタだった。街も小さく展示会もショップもいまいちで、細い坂道にしょぼい出店が並ぶだけ。私のニワトリさんも、もちろんどこにも見当たらず、かなりガッカリ…。それでもまあひとつ、楽しかったといえるのは、坂上にある城跡に設えられた即席トラットリーアで、夕食をとったことくらいかなあ。

とはいっても、10年前の話しなので、現在はこんなに質の高い絵陶器を作っているところもある。ご参考にどうぞ!
http://www.TuscanClay.com

Festa internazionale della ceramica(国際陶器祭)は、毎年6月開催。
モンテルーポ市公式サイト
www.comune.montelupo-fiorentino.fi.it

モンテルーポの考古学&陶器博物館(現在リニューアル中ですが…)
www.museomontelupo.it/mu/1/home/sistema.asp

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私のキッチンで、いちばん活躍してくれているのが、楕円形の小さな絵皿。 くすんだ色合いのピンク、今にもひょこひょこと歩き出しそうな小鳥たち。オイル漬けの野菜やオリーブなどをちょっとのせて、食卓にだすのにも重宝するし、残り物を保存するのにもちょうどいい。

ヴィエトリ・スル・マーレ
これは、アマルフィー海岸にあるヴィエトリ・スル・マーレリという街のもの。 この街は、なんかスゴイ。街中が、本当に陶器だらけなのだ。街道からずっと下っていくと海なのだが、その途中しつこいくらいに陶器屋が並ぶ。壁や看板にも、これでもか、これでもか、というほどの陶器! きわめつけは、この小皿のシリーズを作っているSOLIMENE社の建物だ。タイルとガラスで作られた、くねくねとうねる外観は、ちょっとガウディを思わせる。真夏の太陽に焼かれながらこの建物を見たときは、その、一種グロテスクな雰囲気に、頭がくらくらしたものだ。

だが、この小皿との出会いは、この街ではなくて、ポジターノの隣街、プライアーノ。ここに「TRAMONTO D’ORO」というお気に入りのホテルがあって昔よく泊まったのだが、夫がチェックアウトをすます間、そのホテルの前の小さな陶器屋さんを、ちらっと覗いたのが始まり。当時は、これがヴィエトリのものとは知らず、なんてかわいい絵柄だろう!と、ただただ一目惚れ。
以来、ここを訪れるたびに、小さなものを1つづつ購入していた。

このシリーズには他にも、牛や鶏などのモチーフがあって、どれもこれも“ほのぼの”という言葉がピッタリなキャラたちだ。
イタリア全国、素朴さを売りにしているトラットリーアなどで、この食器を使っているところがあり、偶然出会えたときには、なんともうれしい気分になる。

ヴィエトリ・スル・マーレ市の公式サイト(イタリア語、英語のみ)
http://www.comune.vietri-sul-mare.sa.it
ホテル TRAMONTO D’ORO
http://www.tramontodoro.it/index.html 

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